四書五経(ししょごきょう)~藩校での学問~


「四書」のひとつ『論語』の表紙(左)と内容(右)
 

江戸時代終わりごろの一般民衆の学校【寺子屋】に対して、武士にも学び舎【藩校(はんこう)】がありました。小野藩がつくった学校は「帰正館(きせいかん)」よばれ、天保12年(1841)、現在の小野高校の場所に設立しました。帰正館には、藩士の子弟が7歳で入学し、和学(日本の古代文化を研究する学問)・漢字・算術・習字の教科のほか、剣・槍・弓や馬術といった武道にも勤しんでいました。授業は毎日朝の8時から12時まで、昼からは復習時間とし、休みは五節句、中元、正月、寺社のお祭りだけだったとか。試験もあり、その成績によって、下等生・中等生・上等生と分かれていました。教科書は、「四書五経」などの儒教(じゅきょう)の古典(漢書)や、『国史略(こくしりゃく)』といった歴史書を中心に、まず読みを練習し、先生の講義を聴いた上で理解力を高め、輪読に参加して、先生に質問するといった授業の進め方でした。ちなみに、「四書五経」とは、儒教の基礎的な書物である『大学(だいがく)』『論語(ろんご)』『孟子(もうし)』『中庸(ちゅうよう)』の四書と、同じく儒教の文献である『易経(えききょう)』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『春秋(しゅんじゅう)』の五経を指します。江戸幕府は、儒教(朱子学(しゅしがく))を思想・教育の基幹としていたため、藩校の教科書も中国の書物が使われていたんですね。